撮影方向:荒屋柏野町側から笠間町側 県道松本木津線にかかる踏切で、荒屋柏野町側は公園があります。 住宅街にある踏切ですが、緑が多い感じです。 加賀笠間駅は見えますが、少し遠回りすることになります。 |
撮影方向:宮原町側から金城大学側 金城大学と国道8号宮丸町南交差点を結ぶ市道にかかる踏切で、県道松本木津線のバイパス的な市道です。 この踏切より加賀笠間駅側は住宅街。この踏切より松任駅側は田園地帯。はっきり分かれています。 なぜ宮野前というのかは知りません。もともとは神社が近くにあり「宮の前」だったのか、あるいは宮野という地名が(金沢市の国道304号沿線にもありますが)このあたりにあったのか…色々と想像を掻き立てられる踏切名です。 |
撮影方向:米永町側から県道松任美川線側 県道松任美川線と米永町を結ぶ市道にかかる踏切の1本南にある細い市道にかかる踏切です。 筆者が訪れた時は北陸新幹線関連工事をしていました。そのため、前述の市道にかかる踏切は撤去されていました。 工事の影響か、はたまた元々か、米永町側は砂利道になっていました。 「角川日本地名大辞典 17 石川県」昭和56年7月8日発行版によると、明治時代に「かみかわら」と読む上河原という小字が米永と宮保にあり、「かみがわら」と読む上川原という小字が宮丸にあったそうです。この踏切はどちらで読むのかは定かではありませんが、「かみかわら」の方が正しそうですね。 |
撮影方向:県道松任美川線側から国道8号側 筆者が最初に訪れた時は北陸新幹線関連の工事のため踏切の手前で通行止めとなっており、踏切に近づくことすらできませんでした。 2013年の7月6日に改めて訪問したところ、アンダーパスが開通し、踏切までは行くことができましたが、踏切自体は通行止めになっていました。 おそらく、前後の上河原、石松踏切共々、北陸新幹線が開通する頃には廃止されるものと思われます。 最初は米永町にある踏切だから米永踏切というのかと思っていましたが、再訪により名出層踏切という踏切名だと分かりました。 名前の由来も読みも分かりません。なぜ素直に米永踏切にはならなかったのでしょうか。 |
撮影方向:県道松任美川線側から米永町側 こちらも 右側の緑のフェンスがあるところから、左の踏切のバーのあるあたりまでが渡る部分です。 なお、この踏切の真下に線路をアンダーパスする広い市道があるため、ほとんどの車はそちらを走ります。ここを通るのは歩行者自転車か地元の人だけだと思われます。 「角川日本地名大辞典 17 石川県」昭和56年7月8日発行版によると、北安田の小字として石松が明治時代にあったそうです。読みは「いしまつ」かどうかは分かりませんでした。 |
撮影方向:県道松任美川線側から宮丸町側 前述の広い市道を県道三日市松任線側に進んでいくと、「道村」と「高見」の各集落の分岐の案内があります。「高見」の案内の方に進んでいくとこの踏切があります。 このあたりは北安田町ですが、通称としては「高見」なんでしょうね。 「角川日本地名大辞典 17 石川県」昭和56年7月8日発行版にも明治時代の北安田の小字として高見が載っていました。 踏切を渡ってアンダーパスする構造なので「高みの見物」はできないですね(笑)。 |
撮影方向:県道三日市松任線側から竹松町側 しばらく踏切が無いですが、県道倉部成線のところまで来るとこの踏切になります。 そのまま読むと「あいかわ」ですが、ここは「そうご」と読みます。 その相川ですが、ここから離れた海沿いにある地名です。 ただ、新田踏切の場合と違い、県道倉部成線を海側にたどっていくと(途中で市道になりますが)相川に着きます。なので、そちらの相川由来かと思われます。 周囲は松任の市街地のため、交通量が多いです。また、この踏切を竹松町側に越えた成地区は住宅街となっており、道路の付け替えが激しいです。 |
撮影方向:金剣宮側から中町側 こちらもふりがなつきの踏切で、「○○道」の形の踏切名です。 「かなつるぎどう」とふりがなが打ってあったため、地名+「道」の踏切の「道」の読みは「どう」になるものだと思います。ここから先もそのような名前の踏切がありますが、全て「どう」だとみなします。 なお、北陸鉄道の踏切は「○○踏切道」と「道」が最後につくので微妙に違います。 松任駅も近く、松任駅がこの踏切から見えます。また、この踏切と相川踏切の間で線路が分岐しているところがあり、この踏切は多くの線路を渡ります。 県道三日市松任線側は一本道ですが、この踏切を渡った先は三方に分かれているのでこんがらがらないように(笑)。 |